ブログは人生談の記事が伸びるそうですが、いま高校生の私が挑戦しようとしています。語れるとしても小学生の頃の話ぐらいですよ。
おそらく、15歳までの経験なんてほとんどの人と似通っていますから、信じられないほど共感できないようなことは無いと思います。「懐かしいなー」ぐらいのノリで読んでください。
「あいつは才能があるんだ。うらやましい」
「才能で稼ぐなんてズルい」
誰しも思ったことがあるでしょう。
まだ世界史の世界に足を踏み入れず、アホに暮らしていた小学生の僕はそう考えていました。
書道展・絵画展・コンクール。とくに学期末にある表彰式が特に嫌いでした。たしかに、表彰式でいつものようにスポットライトがあたるあの子には才能がありました。
しかし、他人の才能との向き合い方の型がまだ確立していない僕は、ひどくむしゃくしゃしながら拍手を送っていました。
「賞状がほしいけど、僕はどうやったって無理だ」
連絡帳にネガティブなことを書くこともありました。
「なにか得意なことが見つかるよ」
先生は言うけど、僕は何も変わらなかった。
「実は少し申し訳ない」
コンクール総なめのあの子は言った。
歴史が教えてくれた「才能」との向き合い方
今覚えば、当時は、人生で最も伸びる、いわゆる2次性徴を迎える時期でした。
成績がどんどん伸びる経験をしたり、自分の持てる力がよくわからなくて困ってしまうのです。
そんな当時の僕に伝えてあげたいのは、「ノブレス・オブリージュ」という考えです。高校の歴史の先生が教えてくれました。
それは、自分が得た富や才能、地位は社会に還元していくべきだというものでした。
この考えを知ってからは、才能を認められた著名人に対する見方が変わりました。
アイドルは、みんなの癒しになるためにたくさんのメディアに出る
ピアニストは、技術を磨くことで、より多くの人を楽しませる
野球選手は、みんなのあこがれの的となることで、夢を与えている
大谷選手は、全小学校にグローブを寄付することを発表している
僕は、奇跡的に歴史に興味を持ち、それをみんなにブログで共有できている。
少し本来の意味とは異なりますが、これらはすべて「才能を社会に還元すること」です。
時に嫉妬を覚えられたり、傷つけられることがあるかもしれないですが、才能を社会に還元してはじめて、才能は輝けると学びました。
日本人にとっての才能
欧米には、giftedという言葉があります。これは平均より高い能力を持つ人を指す言葉です。日本での「正義」とは悪を懲らしめることですが、欧米の「正義」とは自分が持っている才能、すなわちgiftされた才能を社会に還元すること。これはgiftedという肩書は関係ありません。万人が才能を還元すべきだということです。
ウルトラマンが敵と戦うシーンを見て、日本人は悪を懲らしめていると感じますが、欧米人はウルトラマンがgiftされた才能、すなわち攻撃力を利用してみんなを守っていると感じるでしょう。
しかし、日本ではgiftedに値する公式の語はありません。国外ではgiftとは才能、つまり神からあたれるものであるとされ、神が存在しない日本ではあまり理解し難いのかもしれないというのが一般的な解釈です。日本のメディアでも、giftedという言葉はそのままgiftedと紹介されています。しかし、どこかネガティブな意味で根付いていると感じます。
ゆえに、日本の現場では自分の才能に疑いを持ち、それを評されることを恥だと考えてしまう人がいるのかもしれません。
これは「日本の学校制度ではgiftredの人は生きづらい」と言われる所以でしょう。そもそも、日本人は才能のある人のことをgiftedと呼ぶことにやや不適切なのかもしれません。
私もよく変人で賞(ポジティブな意味で)を受賞しますので、基準には満たなくてもどこかそのような一面があり、才能の使い方は一つの悩みだったかもしれません。
そこで「ノブレス・オブリージュ」という概念は非常に効果的です。才能を持つもの・持たざるものの両方の幸福のために。この概念を理解するにあたって文化の違いは関係ありません。
もちろんこれの真反対の概念も有り、実は現在はこちらのほうがアメリカでホットな考え方だったりしますが、それはgiftedに対する強い理解があって成り立つものだと私は考えます。
文化的に自他の才能との向き合い方の型が浸透していない、日本の才能という概念の確立はまだまだこれからなのかもしれません。
ここまで読んでくださったあなたには、今回の内容に関する書籍をご紹介します!
「ノブレス・オブリージュ イギリスの上流階級」